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藤波(ふじなみ)は、日本海軍の駆逐艦。夕雲型の11番艦である。 == 艦歴 == 1939年度(マル4計画)仮称第127号艦として藤永田造船所で建造、1943年(昭和18年)4月20日に竣工して一等駆逐艦に類別され舞鶴鎮守府籍となる。 竣工後、藤波は早波とともに訓練部隊の第十一水雷戦隊(木村進少将・海軍兵学校40期)に編入〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030126100, pp.39〕。瀬戸内海に回航され訓練を受けた後、8月20日付で涼波、早波を加えて第三十二駆逐隊が編成される〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030126200, pp.23〕。翌8月21日、駆逐艦響、涼波、早波とともに横須賀に回航され、戦艦山城を護衛して8月27日に瀬戸内海に帰投した〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030126200, pp.27〕。9月30日付で第三十二駆逐隊は第二水雷戦隊(高間完少将・海兵41期)に編入されるが〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030126300, pp.23〕、引き続き第十一水雷戦隊の指揮を受けた〔『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101200, pp.10〕。 10月15日、藤波以下第三十二駆逐隊は軽巡洋艦龍田、戦艦山城、伊勢とともに丁三号輸送部隊を構成して佐伯を出撃した。トラック諸島に到着後、10月23日と27日にはポンペイ島への陸軍部隊輸送に2回従事した〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030126400, pp.6〕。11月3日にトラックに帰投後、直ちにラバウルに進出。しかしラバウルでは連日空襲を受け、11月11日には涼波が沈没した。トラックへの退却の途中、アメリカの潜水艦スキャンプ (''USS Scamp, SS-277'') の雷撃で航行不能となった軽巡洋艦阿賀野の救援にあたった〔『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.11,12〕。トラックに帰投後はクェゼリン環礁およびウォッジェ環礁への緊急輸送作戦に参加した〔『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.12〕。輸送作戦終了後の12月4日には遊撃部隊とは分離してサイパン島への輸送に任じ〔『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101800, pp.14〕、サイパン島とトラック間での船団護衛を行った後、戊二号輸送部隊に加入して第五戦隊(橋本信太郎少将・海兵41期)、重巡洋艦利根とともにカビエンへの輸送作戦を行った〔『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101800, pp.14,15 、C08030102000, pp.12〕。 1944年(昭和19年)1月10日、藤波は満潮とともに戦艦大和を護衛してトラックを出港し、1月15日に呉に帰投〔『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030102000, pp.12〕。整備の後、横須賀行きの130乙船団を護衛〔『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030102100, pp.10〕。2月4日からは第二海上護衛隊の指揮下に入り、2月6日にはトラック行きの3206船団を護衛して館山を出港した。ところが、トラックを目前にした2月16日、3206船団はアメリカ潜水艦タング (''USS Tang, SS-306'') の雷撃で暁天丸(拿捕船、6,854トン)が沈没した。対潜掃討を行った後船団を追ったが、トラック西方沖に到達した所でトラック島空襲で飛来してきた第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機の一群につかまり、辰羽丸(辰馬汽船、5,784トン)と瑞海丸(東亜海運、2,812トン)を失った。トラックに到着後、2月20日にパラオに下がる工作艦の明石を春雨とともに護衛してトラックを出港し、2月24日にパラオに到着した。だが、パラオにもアメリカ機動部隊の空襲の危機(パラオ大空襲)が迫ってきたため、3月29日に第二艦隊(栗田健男中将・海兵38期)第四戦隊および戦艦武蔵とともにパラオを出港してダバオに向かった〔木俣『日本戦艦戦史』339、341ページ〕。しかし出港直後に武蔵がアメリカの潜水艦タニー (''USS Tunny, SS-282'') の雷撃で損傷した。藤波は満潮、白露とともに武蔵の護衛にあたり、4月3日に呉に帰投した〔木俣『日本戦艦戦史』341ページ〕。その後上海に移動し、マニラ、ハルマヘラ島行きの竹一船団の護衛に就く〔駒宮, 163ページ〕。護衛任務終了後、タウイタウイで第二艦隊に合流。6月19日のマリアナ沖海戦では丙部隊(第三航空戦隊、第二艦隊。栗田健男中将)に属した。海戦後、6月22日に中城湾に立ち寄った後〔木俣『日本戦艦戦史』401ページ〕、翌23日に玉波とともに出港してマニラを経由し、昭南に回航された〔『(旭東丸)戦時日誌』C08030644600, pp.15,16〕。7月2日、昭南からマニラ経由で日本に向かう旭東丸(飯野海運、10,051トン)の護衛に玉波とともにあたった〔『(旭東丸)戦時日誌』C08030644600, pp.16〕。ところが、7月7日にアメリカ潜水艦ミンゴ (''USS Mingo, SS-261'') の雷撃で玉波が沈没した。同日にマニラに到着後〔『(旭東丸)戦時日誌』C08030644700, pp.10〕、7月10日に駆逐艦響、夕凪とともに旭東丸、給油艦速吸を護衛してマニラを出港し、サンベルナルジノ海峡を経由して〔『(旭東丸)戦時日誌』C08030644700, pp.20〕7月17日に呉に帰投した〔『(旭東丸)戦時日誌』C08030644700, pp.12〕。 8月10日、藤波はヒ71船団を護衛して伊万里湾を出港、同船団はタンカー帝洋丸(日東汽船、9,849トン)、旭東丸、速吸、かつての交換船であった帝亜丸(帝国船舶、元フランス船アラミス/日本郵船委託、17,537トン)など輸送船およびタンカー合わせて20隻の船舶を、空母大鷹以下8隻の艦艇で護衛していた〔駒宮, 225ページ〕。馬公で加入船の顔ぶれを少し改めた後、8月17日朝に出港〔駒宮, 226ページ〕。しかし、バシー海峡からルソン島沿岸に至るまでの間に3隻のアメリカ潜水艦、ラッシャー (''USS Rasher, SS-269'') 、ブルーフィッシュ (''USS Bluefish, SS-222'') 、スペードフィッシュ (''USS Spadefish, SS-411'') の猛攻を受け大鷹、速吸、帝亜丸、帝洋丸、陸軍特殊船玉津丸(大阪商船、9,589トン)が沈没して大混乱に陥った。藤波もなんとかマニラに到着して船団を再構成し、8月25日に出港した。しかし、マニラから新たに加わったタンカーの旭邦丸(飯野海運、10,059トン)が故障を起こして船団から一時脱落し、再合流するまで旭邦丸の護衛にあたった〔駒宮, 228ページ〕。船団は9月1日に昭南に到着し、藤波はその後リンガ泊地で第二艦隊に合流した。 10月18日、捷一号作戦発動に伴って栗田中将の第二艦隊はリンガ泊地から出動し、で補給の後、10月22日に出撃した。10月24日からのレイテ沖海戦では第一部隊に属して戦闘に参加したが、10月25日、藤波は航行不能となった重巡鳥海の乗組員を救助後、鳥海を雷撃処分して単艦でコロン島に帰投することとなった。その途中の10月27日、藤波は早霜がセミララ島の浅瀬に擱座して航行不能との報を受け救援に向かったが、第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機の攻撃によりカラミアン諸島北方のシブヤン海で戦没した。藤波、鳥海ともに1人の生存者もいなかった。早霜はその後放棄され後にアメリカ軍の調査を受けるが、早霜の船体がその後どうなったかは定かではない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤波 (駆逐艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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